興浜線

 司馬遼太郎さんの『街道シリーズ38・オホーツク街道』。
 モヨロ貝塚のことが知りたくて読み始めた紀行で、昔から疑問に思っていたことが解決しました。


 回り道します。
 JRが国鉄だった頃、北海道には函館本線や室蘭本線といった本線から延びる支線がたくさんありました。鉄道路線を恐竜の骨格にたとえるなら、肋骨や大腿骨にあたる本線は今も残っていますが、小さな骨はJRとして分割された途端に風化してしまいました。

 国鉄が風前の灯となった頃、『カニ族』最後世代の私は、北海道の周遊券を手にオホーツクへと向かっていました。
 目的は、興浜線の制覇です(今なら乗り鉄の「鉄子」と言われるかな)。

 興浜線は、国鉄が計画していた興部(おこっぺ)駅と浜頓別(はまとんべつ)駅を結ぶ路線です。一部区間が興浜南線・興浜北線として開業したものの、全通することなく廃止されました(Wikipedia参照)。

 興浜南線は、オホーツク海沿いの町・紋別より更に北にある興部から雄武(おうむ)まで北上していました。興浜北線は、稚内からオホーツク海に沿って南にある浜頓別から南下して北見枝幸へと通じていました。当初の予定では、南北両側から線路を敷設して中央で繋がるはずでした。
 私が興浜線の存在を知った当時、中央部の未完成区間約50Kmは宗谷バスが運行していました。
 とにかく行ってみたいと思いました。

 興部を出発した私の小さな旅の望みは、残念なことに連絡が悪く、そして残念なことに連絡が良く、呆気なく達成されました。
 連絡が悪いというのは、そもそも興浜南線も興浜北線も一日の本数が少なくて選ぶことができませんでした。
 逆に連絡が良いというのは、電車とバスの連絡が良かったため雄武も北見枝幸も駅前を散歩する時間もなく乗り継ぐしかなかったことです。
 たった一両で走るローカル線は地元の方ばかりで、車窓から見えるオホーツクの寄せては返す波を見ながら、
「いつかは全通するのだろうか」
「将来、全線開通したら、かつて途中でバスに乗り換えたことを子どもたちに話す日がやってくるのかもしれない」
 呑気にそんなことを思っていました。
 それにしても乗降客の少ない車中にあって、
「大きな町を結ぶというわけでもなさそうなのにどうして鉄道の敷設が計画されていたのか」、という理由がわかかりませんでした。


 それが「かねてから疑問」に思っていたことです。
 司馬遼太郎さんの『街道シリーズ38・オホーツク街道』の中にヒントがありました。
 オホーツクに注ぐ川の河口で金が取れた、という記述でした。また、オホーツク海を挟んで、樺太があったということを思い出させてもらったからでした。
 昭和初期に興浜線の計画ができた時代背景を思うと、あながち間違いではないのではないかと思っています。
 金が採れるらしいという噂。
 樺太へ行くための中継地点。
 もしかしたら、オホーツクの海沿いにたくさんの人が集まったのかもしれません。
^0^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2014-05-30 21:47 | 思い出話 | Comments(0)