龍馬への旅

 娘ふたりと高知へ行きました。長女は坂本龍馬に夢中です。

 学生時代に同い年の従姉とふたりで四国を、ほぼ一周したことがあります。岡山から宇野まで国鉄の鈍行に乗り、宇高連絡船で四国の高松に渡りました。
 1889年に初めて本州と四国の架橋を提唱されてから、1世紀、長女が産まれる前年1988年に瀬戸大橋が開業しました。

 本州側最後の特急停車駅児島から、四国側最初の駅宇多津までわずか20分です。長女の言葉を借りると
「やるなあ、日本人!」
 瀬戸内海に橋を架けた日本人の技術には驚嘆します。海を渡ったかつての旅行とは視点が違います。

 眼下に塩飽諸島が見えます。(グーグルアースで「瀬戸大橋」を検索してみると、瀬戸内海には実にたくさんの島があることが実感できます)

 28の大小の島々からなる塩飽諸島は、古代から海上交通の要衝で操船に長けた島民が住んでいました。戦国時代には塩飽水軍として知られ、秀吉の時代には大阪から九州への派兵の手段として活躍しました。江戸時代には、幕府から自治領として認められていました。

 ところで、私はまだ司馬遼太郎さんの「菜の花の沖」を読んでいます。淡路島出身の高田屋嘉兵衛の生涯を描いた小説です。
 小説の中に塩飽諸島の船乗りの話が出てきてひどく心惹かれるものがありました。

 多度津の沖には、塩飽諸島が、小餅をまいたように散らばっている。昔から今にいたるまで日本でもっともすぐれた船乗りを出してきたこの諸島がそばにあるというだけでも、多度津は海港としてめぐまれていた。沖船頭や水主にうち20人に1人は塩飽の出身ではあるまいか。
 大坂、兵庫とのあいだは、寄港船をふくめ、荷船、乗合船が、日にかぞえきれないほどに往来する。
「多度津なら、隣り町へゆくより楽じゃ」
と、兵庫あたりではいわれていた。(菜の花の沖2 司馬遼太郎 文春文庫)


 高田屋嘉兵衛は、幕臣近藤重蔵から、北海道の根室から国後島への海路を開くことを命ぜられます。

 ここまでやってくるについて、船は、宜温丸だけでなく、ネモロに繋いであったいま一艘の官船も同行してきている。重蔵は、その船で帰る。
 その官船には、嘉兵衛の郷里、淡路の属島である沼島の水主が数人乗っていた。
 瀬戸内海の塩飽の島々の水主と、淡路のそばの沼島の水主が日本一の船乗りであることは、世に知られていた。幕府はのちのち官船による蝦夷地への航海を確立するために、塩飽や沼島から人を雇い入れていたが、重蔵としては、この際、沼島を嘉兵衛の宜温丸に乗組ませることに決めた。それによって官船が手不足になるため、宜温丸の乗組員の一部と交替させる。
「沼島の者どもは、今後もこのあたりで官船を漕運する。そのため嘉兵衛が見つける潮路をおぼえさせておきたいのだ」
 と、いった。(菜の花の沖4 司馬遼太郎 文春文庫)


 眼下の島々を縫うように大小の船の白い航跡が幾筋も青い海に鮮やかにのびています。これまでなら、奇麗だなあ、のどかだなあ、と眺めているだけだったでしょう。
 司馬遼太郎さんの小説で、穏やかに見える瀬戸内の海が実は、島が潮の流れを堰とめる役割をしたり逆流を呼び込んだりして複雑に入り乱れることを知ったばかりでした。操船の技術や経験による知識に畏敬の念を覚えます。

 瀬戸大橋を渡り切るとそこはもう四国です。
 四国の中央部、ちょうどくびれた部分を汽車は南下していきます。汽車は、四国山地を真っ直ぐに、迷う事なくトンネルの中を突き抜けて高知を目指して走ります。
 土佐藩を脱藩する際に難渋して四国の山中を越えた坂本龍馬が知ったら何というのでしょう。
 長女と同様に
「やるなあ、日本人!」と言ってくれるでしょうか。
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by h_with_the_wind | 2007-03-28 23:59 | 課外活動 | Comments(0)