カテゴリ:思い出話( 116 )

ひと口カツ

 ひと口カツを揚げました。

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台所でカツを揚げながら、母のことを思い出していました。


 小学生の頃、遠足のお弁当が楽しみでした。
 母に
「おかず、何がいい?」と、聞かれると私は決まって、
「ひと口カツ!」と答えました。

 遠足の朝、母は私のリクエストに応えてカツを揚げてくれました。
 香ばしい香りとジュージューという音が私の布団まで漂ってきました。

 いつもよりも早く起きて私のお弁当を作る、それから仕事に出掛ける、そんな母の生活を思いました。
 まだ電子レンジもなく、冷凍食品もそんなに豊富ではなかった時代です。
 お弁当の分だけ揚げ物をする煩わしさを口にすることもなかった母の後ろ姿を思い出しました。


 揚げ物をする時には、じっとそばについていなければなりません。
 思い出は、お弁当にまつわる母の武勇伝に派生しました。
 うふふ…、ひとりで思い出し笑い。内緒。母と私の秘密(笑)。
^0^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2013-10-18 21:37 | 思い出話 | Comments(8)

東京オリンピック1964

 納戸の整理をしていたら、私の両親がとっていた新聞が出てきました。

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 写真に添えられた詩は、谷川俊太郎さん。

     待つ
          谷川俊太郎

     開かれた道路
     ひるがえる旗
     巨大な天井
     夥しい卵に果実
     ゆれる花々
     直立する塔
     深呼吸する人々
     ひろがる空
     待っている
     いま待っている
     昇る頬
     堕ちてくる脚
     突き出される腕
     燃える筋肉
     ふくれる肺
     飛ぶトルソ
     渇く舌
     流れる髪
     それらが語り
     なおも語りつくせぬものを
     私たちは待っている
     或る者は歌いながら
     或る者は苦しみ
     或る者は疑わず
     或る者は貧しいまま
     けれどみな
     何ひとつ私するもののはなく
     待っている
     死すべき生命の
     束の間の輝きのうちに
     あんなにも明らかに現れるものを
     勝利以上のもの
     平和以上のもの
     喜び以上のもの
     決して名づけられぬもの
     その不思議な
     酩酊の日々を


 変色し、折り目のついた「新しくもない」新聞だけど、やっぱり元通りにしまっておきましょう。
 我が家のタイムカプセルに…。
^0^/


遊びに来てくださって、ありがとう


新聞の広告には…
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by h_with_the_wind | 2013-09-19 20:46 | 思い出話 | Comments(4)

横山さん家(ち) 

 学生時代、夏休みの北海道旅行を計画していて松前と江差のどちらへ行こうかと迷いました。
 国鉄(!)の路線図によると、函館を出発点として松前も江差も同じ線路を進行します。やがて木古内で線路は二手に分かれ、松前線は海岸線に沿って南下し、江差線は内陸へと西に方向転換します。
 両方に行くためには、例えば松前へ行った後、一旦木古内まで戻ってから江差に行かなければなりません。ダイヤの都合で、かなりのハードスケジュールになることがわかりました。

 私たちは、江差を選びました。
 函館駅を出たローカル線は木古内を過ぎると、山の中を分け入って真っ直ぐに日本海に向かって進んでいきます。函館で一緒に乗った人たちは列車が進むにつれてひとりふたりと降りて行くばかりでした。
 今も、開け放たれた窓の外を移りゆく木々の濃い緑と草の香りのする風を妙にリアルに覚えています。

 そうして辿り着いた終点の駅が江差でした。
 江戸時代から明治にかけては北前船の交易と鰊で栄えた豪商が軒を連ねていたという町に喧騒はなく、そこは夏の光が溢れる穏やかな町でした。

 私たちは、予約していたユースホステル江差よこやまへと向かいました。
 回船問屋だったというこのユースホステルは、往時の姿のまま私たちを迎えてくれました。個人のお宅ですが、北海道の文化財指定を受けているという立派な家屋をユースホステルとして利用できることは驚きでした。

 その日の宿泊者は私と友達の他は男子学生が3人の合計5人だけという北海道のユースホステルにしては、小さな規模でした。
 夕食の後片付けを終えてから、家の中を案内していただきました。
 昔の商売や生活の道具が置かれた様子はさながら博物館か民俗資料館のようです。かと思うと、和室には立派な屏風が置かれていて華やかな時代が偲ばれます。
 京都の町屋によく似た造りの間口に対して奥に長く続く家屋の最奥は、かつては海に面していて、北前船から小舟に移し替えた荷物をそのまま家の中に運べるようになっていたといます。これも京都の日本海側にある舟屋を連想させます。

 都会の核家族で育った者には想像できない歴史と生活の存在に圧倒される一方、遠い親戚の家に遊びに来たような懐かしさも感じました。友達とはこのユースホステルのことを、親しみを込めて「横山さん家(ち)」と呼ぶようになりました。

  学生時代にはたくさんの電車に乗って、いくつものユースホステルを利用しました。その中でいつも最初に思い出すのが、この江差よこやまユースホステルです。
 あの時、江差ではなく松前を選んでいたら、私の印象はどうだったかな、と思ったりもします。
^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう


その後の横山さん家
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by h_with_the_wind | 2013-06-09 10:34 | 思い出話 | Comments(0)

おててつないで

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 長女8歳、次女3歳。

 そんな日もあったね、とアルバムを見て、ひとりで笑った午後でした。
(^O^☆♪)


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by h_with_the_wind | 2013-05-25 21:36 | 思い出話 | Comments(2)

こんなん出てきました

 年末、部屋を掃除していた次女が
「こんなんあったよ!」と、持ってきました。


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 幼い娘たちにせがまれて描いたポケモンたちです。
 一緒にポケモンのゲームをしていた日を懐かしく思い出しました。

 151匹で始まったポケモンが今ではその4倍にも増えたそうです。たまに目にすることがあっても、名前も知らないポケモンがいっぱい!
 小学生にはちゃんとわかるんですよね(笑)。
(^O^☆♪)
 

遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2013-01-03 23:44 | 思い出話 | Comments(2)

通学路

 ランドセルを背負って通った道。
 もう長くご無沙汰していた町を歩く機会を得ました。

 空を見上げると道路の両側にはぎっしりとビルが立ち並んでいます。
 空はもっと広かったのに……。

 道路がもっと広かったという感想は、私が大人になった証と受け入れます。
 でも…、空がすっかり閉じられてしまったのは、2階建ての家屋が続いていた通りがバブル期を経てすっかりビルに建て替えられているのだと知っています。微かに戻れない昔への感傷に襲われました。
 そんな時、H君の家を見つけました!
 同窓会で、息子さんも同じ小学校を卒業したと言っていました。


 やがて懐かしい公園の入り口が見えてきました。
 いろんな友達とこの公園を抜けて帰りました。あんなこと、こんなこと、どんなこと?(笑)話しながら……。
 母が迎えに来てくれたことがあります。
 スーツがとっても似合っていました。


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 わあ、木がこんなに大きくなっている!
 ほっそりした木がまばらに並んでいたと記憶しています。年輪を重ねた幹は太く、しっかりと根を張っています。広げた枝いっぱいに緑の葉が厚い層になっています。

―私のこと覚えているかしら?
―ああおぼえているよ。いつも一緒にいたあの子は、どうした?
―さあ…、中学校が違って、それっきり。同窓会にも来ていなかったからわからない…。
―そうか、きっとどこかで元気に暮らしているよ。
 働き者のお母さんは、元気かい?
―亡くなって3年になるの。親孝行が足りなかったと反省しているの。
 ねえ、あなた大きくなったよね。
―あはは、お互いにね。同じだけの年を過ごしたもの…。
 もう行くのかい?
―今日は、ちょっと通りかかっただけだから。
―またおいでよ。
―そうね、また来るわ。
(^O^☆♪)


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-10-18 21:17 | 思い出話 | Comments(4)

火の鳥 NIPPON

昨夜、ロンドン オリンピック、女子バレー日本vs中国の試合を見ました。
どうしようかな、見ようかなそれとも寝ようかな、と迷っているうちに試合はどんどん進行していきます。そして、私はどんどん引き込まれて行きました。

かつて女子バレーの選手では、荒木田裕子さんや松田紀子さんを応援していました。そんな日の思い出から連鎖して横山樹里さんや白井貴子さん……、たくさんの名選手のプレイを思い出しました。

いつの日から試合を見なくなったのでしょう。
ひとつにはルールの変更が大きく影響しています。少し見ないうちにルールが変わって、ついていけなくなりました。
加えて実業団の試合中継がなくなったことでしょうか。家族がスポーツ中継を見ないこともあるかもしれません。
そう、女子バレーが火の鳥NIPPONと呼ばれ始めた頃から、アイドルの応援を前面に出すようになって、試合がとてもにぎやかになったことも影響しているように思えます。私にとってはその応援がとても耳に障ります。

なんてことをつらつら思って見ていると試合はフルセット。
中国を破って準決勝進出を決めた瞬間全身で喜びを表現する選手の姿に、今度はミュンヘンオリンピックの準決勝でブルガリアを破った男子バレーチームのシーンが重なりました。
^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-08-08 21:50 | 思い出話 | Comments(2)

与謝野 晶子

 与謝野晶子を知ったのは、小学校6年生でした。
 学校でふたりひと組になって「偉人」について調べて発表するように、という課題が与えられ、私は一番仲の良かった友だちと取り組みました。
 友だちは、
「絶対に与謝野晶子にしよう」と言いました。
 そもそも「偉人」の定義がわからなかった私には反対の理由もなく、言われるままに与謝野晶子の作品を読み、生涯を調べました。

 最初に日露戦争に出征した末の弟を案じた『君死にたまふことなかれ』を読みました。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや……


 小学生にも伝わってくる内容でした。
 軍国主義へと傾いて行く時代に、反戦の意思を世にはっきりと示した女性、女性の地位向上のために尽力した女性。
 小学生レベルではそれ以上踏み込むことはありませんでしたが、強烈な印象が残りました。


 中学に進学して改めて与謝野晶子の作品を読み、その生涯の周辺を以前よりももう少し詳しく辿った私は、晶子のまた違った情熱に触れて戸惑いました。

その子二十歳櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな


 人生で一番輝ける季節、傲慢さえ許されてしまうようなきらびやかな瞬間を堂々と歌い上げる姿勢は他を圧倒する迫力に満ちています。

 その生涯を辿ると、バリイタリティ溢れた生き方が見えてきました。不倫の末、与謝野鉄幹を追いかけて上京、鉄幹の離婚を待って結婚、12人の子をなし、次々と作品を発表、源氏物語を訳し、日本で最初の男女共学校創設のメンバーとして名を連ねます。

 いやはや大変だ!(笑)
 私にはとってもついていけない…。

 第一次世界大戦中は、励戦的な戦争賛美の歌や戦争を美化し鼓舞する歌を作りました。
 『君死にたまふことなかれ』と反し、一貫性がないとの批判もあるようですが、彼女の意識の中心が戦争ではなく家族にあるのだとすれば納得できるように思いました。打てば響く、感性の指す方向へ躊躇せずに走りだす情熱は、時に第三者には矛盾と映ってもきっと本人には気付きもしない瑣末なことなのでしょう。
 とにかく与謝野晶子という人は、私には眩しすぎました。


 今、再び与謝野晶子が私の前に現れました。
 旅行記『女三人のシベリア鉄道』で森まゆみさんが、晶子の足跡を追っています。
 晶子は、夫の鉄幹が創作活動に行き詰ると、手配してパリへ送り出します。
 パリの夫から「君も来い」と手紙が届けば、子供たちを預けてシベリア鉄道に乗り、モスクワ経由で夫の待つパリへと旅立ちます。

 私は与謝野晶子のような生き方はできない…。颯爽とした生き方は、とうてい私のスケールでは計ることができません。
^^;


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-06-26 21:40 | 思い出話 | Comments(6)

あじあ号 

 九時大連(だいれん)發の「あじあ」に、ぼくは乗つた。見送りに來た母が、大勢の人にまじつて見える。
「おかあさん、行つてまゐります。」
ぼくが手をあげると、母もあげた。窓を開くことができないので、ぼくのこのことばも通じないらしい。母も何かいつてゐるやうだが、こちらにはわからない。「あじあ」は流れるやうに動きだした。ぼくは、この春休みにハルピンのをぢのところへ行くのである。一度乘つてみたいと思つてゐたこの汽車に乘れて、ほんとうにうれしい。
 (「あじあ」に乘りて 著作者:文部省 底本『初等科国語六』(1943年) 提供Wikisourceより)

 (全文へのリンクができないのが残念ですが、下記を検索してみてください)
      Wikisource 「あじあ」に乗りて


 私のブログタイトルのとおり、ぽかりと心に思い浮かんだことから連想を重ねてたどりついたのが、「あじあ号」でした。

 母から小学校の教科書に載っていたという「あじあ号」の話を聞いたのはいつだったでしょう。その時の情景を思い出すことはできないけれど、乗ってみたかったという母の言葉は私の心の片隅に残っていたようです。連想の連鎖の先で、普段すっかり忘れていたことが突然、浮かびあがってきました。

 九州の山間部で生まれ育った母にとって教科書で垣間見た未知の世界は、余程強く心に残っていたのでしょう。
 母が成長して都会に住み、看護婦として働き、娘を産んでもなお時折思い出していた文章を読んでみたい。私の連想は、素朴な衝動へと移っていきました。

 私も母から聞かされたままに受け入れていたけれど、そもそも「あじあ号」って何でしょう。
 手始めに「あじあ号」で検索してみました。

 日本の資本・技術で経営されていた南満州鉄道が、1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで大連駅からハルビン駅まで運行していた特急列車。大連港と日本の間には定期連絡船があった。(Wikipediaより)

 「あじあ号」の概念を掴んだところで、更に母の小学生時代の教科書を探してみました。
 いくつかのキーワードを重ねて、全文に行きあたりました。
 春休みに、日本の技術を集約した汽車に乗って、ひとりで叔父さんの所へ行った少年の体験談です。
 私が映像のない時代に生きる小学生なら、かつての母と同じようにまだ見ぬ世界に想像の翼を広げてドキドキしたことでしょう。


 雲が切れて、日光がさして來た。雲はしきりに流れて、早春の畠を、野を、そのかげがはつて行く。「あじあ」は、雲のかげを追ひ越したり追ひ越されたりして、滿洲の大平原をまつしぐらに突進す。

 大きな赤い夕日が沈むところだ。夕日とぼくとの間には、さへぎるもの一つない。
     (「あじあ」に乘りて 著作者:文部省 底本『初等科国語六』(1943年) 提供Wikisourceより)



 産まれた土地から外に出ることさえ簡単ではなかった幼少時の母には、大平原も大きな赤い夕日も想像の域を出ることはなかったことでしょう。
 後年、シベリア鉄道に乗るという行為は、母の幼い日からの夢が達成できた瞬間だったのだと理解できました。
^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-06-12 07:08 | 思い出話 | Comments(4)

太陽の塔

 「大阪万博」「太陽の塔」という言葉に反応するのは、私たちの世代が最後でしょうね。
 お祭り広場の大屋根が解体されても、エキスポタワーが老朽化を理由に撤去されても、エキスポランドが閉園しても、太陽の塔は千里丘陵にでんと腰を据えています。

 あとどれくらい維持されるのかな…。
 私たち以降の世代には、理解できないシンボルだから呆気なく片づけられるのかもしれない…。

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^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-04-09 20:41 | 思い出話 | Comments(6)