カテゴリ:思い出話( 116 )

電報の思い出

 成長してから思い返して数えてみると私は2歳でした。
 夕飯の支度をしている母の背中を見ながら、私はぬいぐるみで遊んでいました。玄関で声がして、母が出て行きました。おじさんが、
「電報です」と、言って母に『手紙』を渡して帰って行きました。
 手紙を広げた母は、急にそわそわとし始めました。

 その時すでに父が帰宅していたのか、それからどうやって家を後にしたのか、すぐだったのか夕飯を食べた後だったのか、覚えてはいません。

 次の記憶は、祖父の家に飛びます。縁側で従姉と一緒に遊んでいました。
 母が電報を受け取ってから何日かを祖父の家に泊まりこんでいたようです。祖父母と同居していた叔父一家の2歳年上の従姉が私の遊び相手でした。

 やがて座敷は綺麗に片づけられ壁には幕が張られました。親戚が集まり、たくさんの人たちが出入りし始めました。
 台所では女たちが煮炊きする香りが立ち込め、テーブルの上にたくさんの料理が並びました。近所の男たちがお酒を飲んで料理を食べて帰りました。

 そうして気がつくと祖父はどこかへ行ってしまい、座敷から玄関までの飾りが一瞬のうちに片づけられました。

 久し振りに親子三人で自宅へと帰る車中、両親は疲れた様子で無口でした。
 喧噪の日々を過ごして久し振りに帰った家は、しんと静まり返っていて、あの電報が届いた時に遊んでいたぬいぐるみがころんと座敷に転がっていました。

 電報の内容が
「チチ キトク…」だったのだと記憶を補ったのはいつのことだったのでしょう。
 家で電報を受け取った唯一の思い出です。


 クイズ番組を見ていたら、
「115は、何の電話番号でしょう」という問題が出ました。
「電報」という答えを聞いて、次女が間髪入れず、
「電報って何?」と、問うてきました。
 いささかぎょっとしながら説明すると、
「ああ、トトロに出てきたやつね…」ですって。

 ……ですよね…。
^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2012-02-02 18:54 | 思い出話 | Comments(4)

昭和は遠く…

 テレビで映画「ダイハード」を見ました。

 ついこの間ハラハラしながら見たように思っていましたが、封切られてから20年以上も経つのですね。

 あの頃、個人が電話を持ち歩く時代が来ることも、増してその電話で手紙が送れることも想像すらできませんでした。
^_^:


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2011-10-09 23:59 | 思い出話 | Comments(2)

かめのえんそく

♪かめの遠足は 三日前から
リュックサックに おかしをつめる
かめの大好きな チョコレートは
ベタベタとけて もう食べられない

のんびり行こう のんびり行こう
急いで行くと すぐ終わるだろう
のんびり行こう のんびり行こう
ゆっくり行けば まだまだ続く


 ご存知でしょうか。
 かめのえんそく。

 夜、家族でFNS歌謡祭を見ました。
 毎日、相も変わらず時間に追われた生活をしていますが、ふっとゆるんだ家族の時間。
 夫が、長女が幼い日のことを思い出しました。
 夫と二人で車に乗っていた幼稚園児の長女が、唐突に「かめのえんそく」を歌い出した話を始めました。突然、調子外れながらもご機嫌で歌う長女に驚いた、と今でも笑いながら言います。
 まだ産まれていなかった次女が楽し気に聞いています。

 間もなく長女が帰省します。

^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう


かめのえんそくの続きはこちら
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by h_with_the_wind | 2011-08-06 23:59 | 思い出話 | Comments(2)

靴を脱ぐ文化

 米原万里さんのエッセイを読んでいたら、ニューヨークのセントラル・パークでも日本でも、同じようにホームレスの人々が住む段ボール製の「家」を見たが、日本の「家屋」の外には靴が脱ぎ揃えている、とその観察が書かれていました。
 光景を思い浮かべて、内心ニヤリとしつつ納得しました。

 ざっくりとしか調べていませんが、家の中で靴を脱ぐ習慣があるのは日本だけでもなさそうです。カナダでは靴を脱ぐよ、という証言がネット上にありました。

 それでも日本人が家に上がる時に靴を脱ぐのは、揺るがない習慣です。
 かつて短期間ですがアメリカで暮らした私たち家族は、簡素なアパートの入口で靴を脱いで生活していました。アメリカで知り合った日本人家族の中で靴を履いたままで家の中に通されたのは、ただ一軒だけでした。
 おままごとでもお花見でもビニールシートを一枚敷いただけで、私たち日本人は靴を揃えて脱いで上がります。

 観光地の寺院を拝観する時やお城の天守閣に登る時に、上り口でビニール袋を渡されることがあります。
 入口でスリッパに履き替えて、履いてきた靴はビニール袋に入れます。見学を終えると出口でもう一度履き替え、スリッパと空になったビニール袋を返却する仕組みです。狭くて急な階段を慣れないスリッパで上り下りするのに難渋することがあります。ロングブーツやがっちりした重い靴をぶら下げて国宝に見入る姿が可笑しかったりします。
 郷に入れば郷に従えで、外国からの訪問者も従順にこのシステムに従っています。

 昔、まだソ連という国があった時代、サンクト・ペテルブルグがレニングラードという名前だった町で文豪の家を見学しました。入り口でビニール袋を2枚ずつ渡された私たちは、ガイドの案内に従って履いていた靴の上から左右それぞれビニールを履いて屋内を見学しました。いわゆるオーバーシューズです。

 米原万里さんは、日本人の段ボール製の「家」では靴を脱ぎ、ニューヨークでは靴を履いたまま入ることを「発見」した自らを有頂天になり、厳粛な気持ちになった、と書かれています。
 私は、オーバーシューズとの出会いに、頑なに習慣を守ろうとする彼我の姿を比較して米原万里さんと同じ感情を抱いたことを思い出しました。
^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2011-07-31 23:59 | 思い出話 | Comments(6)

ユースホステルの旅

 夫が写真のネガをデジタルに記録する作業を続けています。
 もうどれくらいになるでしょう。半年?1年?時間を見つけてはコツコツと続けています。

 リビングで学生時代の北海道旅行の写真を記録する作業をしながら、
「そういえば身近にユースを利用するような女の子、おらんかったなあ…」とつぶやいた夫は、私を見て、
「あんたぐらいか…」と、続けました。

 ユースホステル。
 死語?
 いえいえ、検索したらちゃんとヒットしました。
 一度縁がなくなってしまうと別世界になってしまうものなのですね。


 私がユースの会員になったきっかけは、何度かこのブログにも登場する同い年で九州に住む従姉との旅行でした。
 福岡の叔母のところに遊びに行っていた夏休みに、急遽従姉と萩・津和野へ旅行することになりました。従姉に連れられて福岡のユースホステル協会で手続きをし、もう翌日には、出発!

 以来、体力と時間に余裕のあった学生時代、少ない予算でたくさんの経験をしたいと、周遊券とユースの会員証をリュックに入れてあちこちへと出掛けました。

 初めての土地のユースの玄関を
「ただいま」と、挨拶しながら入っていく…。
 照れ臭さも手伝って抵抗があったそんなルールも、いつしか平気になっていきました。
 ご飯をいただけば後片付けをする、部屋を使えば掃除をする、当たり前のことをして、
「行ってきます』と次の目的地に向かいます。

 夕食の後には、自己紹介や親睦会が催されたりして…。
 今でも、『岬めぐり』や『翼をください』を聞くと、ユースで歌ったことを思い出します。
 あの時、一緒に歌った人、情報交換をした人とは、ホントに一期一会だったのですね。

^O^/


遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2011-06-30 09:04 | 思い出話 | Comments(4)

朧月夜

♪ 菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば
  夕月かかりて にほい淡し

 幼い日、母に教わりました。
 一緒に田圃の畦道を歩きながら歌ったような記憶があります。でも、これは後付けかもしれません。
 人前で歌うことはなかったけれど、歌の好きな母でした。


 2年前、病院へ通う道すがら、目の端に黄色い花の群れをとらえていました。何度も何度も通った道、そのたびに目に触れる鮮やかな黄色。
「あー、菜の花が咲いている」と、確かに認知していました。
 ゆっくり眺めたのは、母の葬儀の後でした。
 遠くからでも目に飛び込んでくる黄色い花たちが、私に元気を分けてくれていたことを知りました。


♪ 里わの火影も 森の色も
  田中の小路をたどる人も
  蛙の鳴く音も 鐘の音も
  さながら霞める 朧月夜



 一度暖かい風が吹いたものの今年の冬将軍はなかなか手強くて、再び寒気に晒されています。それでも確かに春は近付いています。


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今年も咲きました  ^O^/



遊びに来てくださって、ありがとう

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by h_with_the_wind | 2011-03-08 23:24 | 思い出話 | Comments(4)

鎮守の森

 私が子供の頃、私たち家族は新興住宅地に引越しました。
 計画して造られた真新しい街には輝きがありました。それは希望だったのかもしれません。ゆったりとした道路幅とコンクリートで護岸された川の流れる街は、若い世代のエネルギーに満ちていました。添え木で支えられた街路樹は、少しでも風が吹くとそのまま倒れてしまうのではないかと思うほどに細く頼りなく小さな葉を震わせていました。等間隔に並んだ街灯は夜の安全を保証していると、母を喜ばせました。
 高度成長期の日本を象徴するようなベッドタウンでした。

 そんな住宅地のはずれには、大きな公園がありました。
 若かった両親と私は、休日になると公園まで散歩しました。
 遊具もなく、周囲をサクラやタイワンフウ、プラタナスなどの植樹で縁取られた広大な公園は広場と呼ぶ方がふさわしく思える空間で、造成前のゆるやかな丘がそのまま残っていました。丘の上まで登って振り返れば、未来都市を想起させる近代的な住宅が行儀よく並ぶ風景を見ることができました。
 公園の最奥は、公園を縁取る新しい並木に沿って散策路が巡っていました。造成はそこまでで、散策路の更に奥には竹林が広がっていました。
 ただ一本だけ竹林を抜けて向こう側に繋がる道がありました。

 その向こう側にはどんな世界が待っているのだろうー。
 山があればその向こう側にあるはずの世界が見たくなる、川があれば流れに沿って行ってみたくなる、これは私だけの癖でしょうか。最初に一本の細道を発見した時から、とても興味が湧きました。

 初夏、父とふたりで散歩に出掛けた私は、細い道の先にどんな世界があるのか興味があることを話してみました。
 「行ってみようか」と、父は私の願いを受け入れてくれました。
 両側に竹林が迫る砂利道を辿って丘の向こう側へ足を伸ばしました。それはわくわくするような瞬間でした。
 しばらく道なりに歩いて行くと、急に視界が広がり左手に竹藪を背景にした溜池が、前方には青々とした田畑が続いていました。
 田圃の畦道を選んでずんずん進んで行くと、古くからこの地で続く集落に行き当たりました。新興住宅地から大きな公園を隔てた隣には、古くから栄えた人の営みがあったことを知りました。どうやら私たちは、古い町の裏口から入り込んでしまったようです。
 行く手にいっそう緑の濃い場所を見つけて、そこを冒険の目的地にしました。古くから伝わる家と新しく建て替えられたらしい家が混在した細い通りを抜けて、田圃の脇を過ぎたところに鳥居が現れました。土地の神社のようです。大きな鳥居が神域と俗界を分けています。

 以来、散歩に興が乗れば公園を抜けて田圃の畦道を歩き、神社まで足を延ばすようになりました。そんな散歩は、私が成長するにつれ回数も減り、いつしか行くこともなくなりました。

 新しい街は清潔で秩序が保たれて快適に見えますが、どうしてかその明瞭さに疲れることがあります。田圃の畦道に生えた雑草やその陰から聞こえる蛙の声、畑と道の境も曖昧で落ちているゴミにさえふっと気持ちが和むのはどうしてでしょう。柿の木に柿の実がなっている、当たり前のことに心が弾むのはなぜでしょう。
 もうそこへ行くことはなくなってからも、時折、あの風景を懐かしく思い起こしました。


 ずっと後になって、新興住宅地にある公園が、実はとても細やかな手を加えられてきたのだと知りました。
 バブル期には広大な土地を「有効利用して」ハコモノを作り街の活性化を図ろうという計画がありましたが、周辺住民の反対が功を奏したのかバブルが弾けて挫折したのか実行されることはありませんでした。
 そうした人間の事情とは別に公園は変わらぬ春秋を重ね、造成期に植樹された樹木はどれも大きく成長しました。
 春には満開の桜が、秋にはタイワンフウが彩りを添えます。夏には目に痛いほどの緑が命を競い、かしましい蝉の声が響き渡ります。誰もが眼を向けなくなる冬枯れの季節には、時に白一色の世界を作り出して存在をアピールしています。
 そうして今に至っています。

 公園に「ハコモノ」計画があった頃、不思議なご縁で私の娘たちは、この公園の奥にある「父と私が発見した」神社でお宮参りをしました。新興住宅地に暮らす核家族二世の私たち夫婦にとって、子供の誕生を報告する神社が決まっていたわけではありませんでした。
 お宮参りでは、土地の守り神である産土神(うぶすながみ)に子供の誕生を報告してその健やかな成長を祈願します。かつては、氏神さまに参拝して新しい氏子(うじこ)として神さまの祝福をうけると同時にお産の忌明けの儀式でもあったといいます。
 この土地に根付いているわけではないけれど、宮司さんはお宮参りをお願いする私たちを寛大にも受け入れてくださいました。
 産まれたばかりの赤ん坊を連れて車は公園を抜ける勝手口からではなく、町の中心部から入って行きました。アプローチは違ったけれど、私が両親と散歩に来た頃と変わらぬ風景の中に神社はありました。


 都市部の拡散は、高度成長期やバブル期ほど顕著ではないにしても、年々じわじわと進んでいます。バブル期に都市開発の計画があった神社の周辺も例外ではありませんでした。バブルが弾けた後、頓挫したかにみえた計画が実行に移されました。
 周囲はいつしか立入禁止区域として外壁が廻らされ、わずかにあいた壁の間を大型トラックや重機が出入りするようになりました。造成が終わると、公園を越えてきて最初に目にする農業用の溜池や田畑ばかりか明治時代の年号が刻まれたお墓までもが姿を消していました。

 先日、その辺りを車で通りました。
 生まれたての街は、子供の頃に私が引越したばかりの新興住宅地で感じた輝きがありました。清潔でエネルギーに満ちた印象を受けました。何もかもがかつて見た風景と重なるようでした。
 と、その一角にこんもりとした森が残っていました。
 鎮守の森です。
 神社を囲むようにして存在する鎮守の森が、そこに神社があることを教えてくれました。かつて「父と私が発見した」神社であり娘たちの成長を祈願した神社です。
 これまで周りの田畑や樹木と融け合っていた鎮守の森がくっきりとその領域を露にしていました。それは、最初に緑の濃い場所と意識した時よりもずっとはっきりと判別できました。
 神社の外周はしっかりとコンクリートと柵で固められ、鳥居の間際まで道路が走っていました。鳥居の向こう側・神域は、昔のままの静謐と荘厳を守っていることが伺えました。
^O^/

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by h_with_the_wind | 2010-11-21 23:24 | 思い出話 | Comments(4)

ナンバープレート

 今日、私の前を走っていた車は、『三河』ナンバーでした。
 徳川家康の小説を読んでいる最中の私には、妙に親近感がわきました。そういえば『尾張小牧』というナンバーを見たこともあります。両者互いに譲らずといった雰囲気にふっと可笑しくなりました。
 大阪にはもっと古くからの呼称『なにわ』ナンバーも健在ですから、他所のことはいえませんが…(笑)。

 日本の車のナンバープレートは、自家用自動車なら白地に緑のひらがなと数字の組み合わせ、事業用は緑の地色に白の文字といったシンプルなものですが、アメリカのナンバープレートは州ごとにロゴが入っています。

 私が暮らしていたコロラド州のナンバープレートは、ロッキー山脈でした。
 観光地に行くと、様々なナンバープレートを見ることができました。駐車場であれこれ見つけては写真を撮っていましたが、今、そんなことをしたらテロリストか何かと誤解されるかもしれません。
^O^


たとえば…
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by h_with_the_wind | 2010-10-20 23:59 | 思い出話 | Comments(6)

北海道弁

 鈴木章・北海道大学名誉教授のノーベル化学賞受賞ニュースに、縁もゆかりもない私の心まで弾みました。

 鈴木先生は、北海道の太平洋に面した鵡川町のご出身だそうです。
 鵡川町にお住まいの弟さんが、テレビのインタビューに答えられていました。パソコンをしながらインタビューを聞いていた次女が、はっとしたようにテレビの方を見ました。
 「はあ?何語?」ですって(笑)。
 次女にとって初めて聞く生の北海道弁でした。

 私も初めて北海道で寮のおじさんとおばさんにご挨拶をした時、その話し言葉にカルチャーショックを受けました。
 その日から、新しい言葉がシャワーのように降りかかってきました。のんびりしていて温かいのかと思えば、きつい響きに感じてひとり傷ついたこともありました。『単語』が理解できなくて途方にくれたこともありました。
 やがて友達を通じて方言を覚えていきました。
 「投げて」「ばくりっこしよ」「まかしたさあ」(※)なーんて、自然と口を出て来るまでそんなに時間はかかりませんでした。

 ノーベル賞受賞のニュースで、忘れられない方言を突然聞いて、忘れられない人たちのことが浮かびました。
^O^


(※)
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by h_with_the_wind | 2010-10-07 23:59 | 思い出話 | Comments(0)

三河と尾張

 私が大学を卒業して2年目の職場でのことです。
 新人が配属されて挨拶にやってきました。愛知県出身の新人に対して、定年を控えた年齢の上司が、
 「愛知はどこかね?三河か、尾張か?」と、尋ねられたのがとても印象に残っています。
 その上司は、愛知県豊橋のご出身でした。
 三河と尾張?
 まだ20代の前半だった私には、江戸時代を彷彿する表現がとても古臭く、そして普段耳にしないだけに新鮮なことと受け止めました。

 三河と尾張では土地の人の気質が違うらしい、と知ったのは、随分後になってからです。
 街道が四通八達して物流に適した尾張は商業的センスに恵まれ大胆な発想と動きのできる織田信長を生み、山岳地帯から起こした三河は手堅い農民気質を持った徳川家康を生んだと言います。

 ホントかな?
 私にはよくわかりません。

 「国盗り物語」「関ヶ原」(共に司馬遼太郎著 新潮文庫)と続けて読み終えて、次は全く違う小説を読もうかとも思いましたが、何か心残りがありました。そう異質の小説に移る前に、知っているようで知らない徳川家康のことを読もうと決めました。

 かつての上司は、自分と同郷であるか否かを新人さんに尋ねましたが、三河と尾張って仲が悪いのでしょうか。
(^_^;)

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by h_with_the_wind | 2010-10-04 23:59 | 思い出話 | Comments(10)