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どら焼き 

 月に一日、弘法大師のご命日だけ販売される「どら焼き」があるという話は聞いていました。
 京菓匠笹屋伊織さんのどら焼きです。

 江戸時代末期、五代目当主笹屋伊兵衛さんが東寺のお坊さんからの依頼で創作されたそうです。
 熱した銅鑼の上で焼いた薄皮に、棒状にしたこしあんをのせて巻き込んだものを竹の皮で包んでいます。
 新しいお菓子の噂は、たちまち広がり生産が追い付かなくなったといいます。
 そこで、京都の東寺に参拝された人へのお土産として毎月21日だけ販売されるようになったそうです。

 一子相伝で受け継がれたこのどら焼きは、現在では、21日を挟んだ3日間、販売されています。

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 もちもちした薄皮とあっさりしたこしあん。美味でございます~。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-27 22:45 | 家庭科(含子育て) | Comments(4)

一冊の本、ひとつの人生

 読了したすべての本について感想や心に残った文章をブログに残している訳ではありません。
 だけど、このところ「本の話」ばかりです。
 私にとって今年は、小説の「当たり年」なのかもしれません。

 読み応えのあるしっかりとしたそして丁寧な小説に出会った時の喜びは、私を豊かにしてくれます。

 一冊の本にはひとつの人生。

 そんな言葉をどこかで耳にしました。
 私の人生は、どんなに頑張ってもひと通りでしかないけれど、小説を読むことでいくつもの人生を知る機会が得られます。私と似ていて親近感をもつこともあれば、全く異なった主人公の行動に驚くこともあります。いろんな人のそれぞれの心の内を知る機会はそうそうありませんものね。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-26 22:24 | わたし | Comments(2)

モラトリアムな季節

 モラトリアム。ラテン語を語源に持つこの言葉は、「猶予」とか「一時停止」の状態を指します。
 今では、心理学の分野で言われる「大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間」という解釈をされる方が多いのではないかと思います。


 熊谷達也さんの小説「七夕しぐれ」の後日談、「モラトリアムな季節」(熊谷達也著 光文社文庫)を読みました。

 ・モラトリアムの季節と言えば聞こえがいい。あの青臭い疾風怒濤の時代なしには、いまの僕が存在しないのも事実である。
 しかし、もう一度あの時代を体験したいかと問われれば、確実に「ノー」だ。何にでもなれそうな全能感と、何物にもなれないのではないかという絶望感が、日替わりでやってくる日々を追体験するなどまっぴらだ。

 ・だから、モラトリアムの季節にほんとうに別れを告げられるのは、社会人として社会に出たかどうかではなく、自己愛に縛られずに済むようになった時だと言えるだろう。

 ・もっともモラトリアムな季節とは、嫌いな自分に折り合いをつけるために必要な時間でもある、ということが、いまの僕にはわかっている。
「モラトリアムな季節」(熊谷達也著 光文社文庫)より



 ですよね~♪
 嬉しくなるくらい共感してしまいました。
 私の青春時代に流行った「青春時代」という歌にもありました。

 ♪ 青春時代が夢なんて 後からほのぼの思うもの~
   青春時代の真ん中は 胸にとげ射すことばかり~

 人それぞれに違う体験をしているはずなのに、振り返った時に思うことは同じなのでしょうか。
 自分のことでいっぱいいっぱいで友達を傷つけたり、傷つけられたりしたこと。もっと言いようがあったはずなのに、うまく言えなかったこと。
 何も恐いものはないという根拠のない自信と、他人からどう見られているのかを気にして卑小化する日々。

 北海道で過ごした学生時代を懐かしく思い出します。
 カーテンを開ける前にわかった初雪の朝。ブルーのカーペット、食器、本棚に並ぶ小説の順番。
 でも、もう一度そこからやり直すかと問われたら…、やっぱりしんどいなあ(笑)何度やり直してもうまくいく気がしないもの(笑)


 まるで皮膚の表面に神経がむき出しているかのように、ちょっとした刺激にも過激に反応してしまう、そんな時期を経験して大人になっていくのですね。
 娘たちは今、青春真っただ中。楽しそうだけど、少しばかりしんどそう(笑)
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-24 22:58 | 本の話 | Comments(2)

寄り道 

 私って寄り道しないなあ…。
 そう思ったきっかけは、夫が持ち帰った話からでした。夫が新しく知り合った人が、
「会社が終わっても真直ぐ家に帰る気持ちになれない…」と、言ったのだそうです。
 自分にはわからない、仕事が終わって誰かと約束があれば別だけど、そうでなければ真直ぐに帰ってくる、と夫は言います。
 とりあえずその言葉は信じるとしましょう(笑)。

 家に帰る前に一拍置きたい、気持ちを切り替えたい、わからないでもありません。

 では、私はどうかな、と思うとやっぱり寄り道をすること、ありません。
 仕事が終わればスーパーに寄って家に帰る、当たり前のように繰り返しています。
 子供も大きくなったのだから、少しくらい時間が遅くなってもよさそうなものなのに、お茶を飲むこともなく帰宅しています。

 寄り道、します?
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-19 22:14 | わたし | Comments(4)

七夕しぐれ

 熊谷達也さんの小説といえば、マタギ3部作「相剋の森」「邂逅の森」「氷結の森」を読んだきりです。
 ボリュームも内容もたっぷりと充実していてお腹一杯(笑)。と、いうわけでもないのですが、ちょっとご無沙汰していました。

 七夕しぐれ(熊谷達也著 光文社文庫)を読みました。

 七夕しぐれは、熊谷達也さんの少年時代を書いた自伝小説かと思っていましたが、自らの時代を背景にしたフィクションとの印象を受けました。
 一人称の回想という体裁のためかこれまで私が読んだ作品とは全く異なった印象で、途中何度か、ハテ誰の小説だったっけ、と立ち止まりました。それでもいわれなきいじめや差別が明らかになるにつれて、マタギ3部作と通底しているテーマが見えてきて熊谷達也さんらしさとでもいう視線を感じるようになりました。


 仙台には旅行で一泊したことがあるだけですが、同世代が共通に経験した空気感を懐かしく感じました。
 団塊の世代から遅れること「干支で一回り」。われらの世代は、団塊の世代と団塊ジュニアの時代までをつなぐ出生率が低くて影の薄い存在です。あらかたのやんちゃは先行世代がやり尽くしたためか大人からの締め付けは一層厳しく、また反抗期の終焉を見てしまったためか、傍観者を気取っているうちに、「シラケ世代」なんて呼ばれたりもしました。


 小説の中で、私たちが子供だった頃の日本の家庭についての描写が印象に残りました。長くなりますが抜書します。

 子どもにとって大人の世界がリアルなものではなく、抽象的なものとして、決定的な記号化が進んだのは、たぶん、僕が生まれたころ、戦争が終わって干支が一回りしたあたりからだろう。
 国民挙げての戦争に負けた、という屈辱と、信じていたものが実は虚像だった、という羞恥心からの、一種の逃避行動だったのかもしれない。国民のほとんどがサラリーマンに、もう少し正確に述べると、いかにもアメリカ的なホワイトカラーのサラリーマンになることを夢見て、非サラリーマンがサラリーマンに羨望と嫉妬の目を向けはじめた時代であるからだ。
 ……略……
 家庭の在り方もサラリーマンを中心に回りだした。が、「お父さんは会社で一生懸命がんばっているのよ」と母親に言われても、なにをどうがんばっているのか、子どもにはまったくリアリティのない話で、なにかよからぬことの言い訳にもきこえてしまう。
 簡単に言えば、多くの大人が子どもにはわからない秘密を持つようになった。そして、秘密を明かすつもりがない相手を子どもは信用しない。つまり、自分たちの秘密を明かしてはいけない存在に、大人がなった。ここで決定的に大人と子どもの世界は分離した。
 ……略……
 だから、うまく立ち回れば大人を騙せる、と気づいた最初の世代が僕たちであり、同時に、大人はあてにならないと最初に知った世代でもある。たぶん……。
七夕しぐれ(熊谷達也著 光文社文庫)



 小説で大切な役割を果たす沼倉のおんちゃんと安子ねえは、サラリーマンとは対極にいます。主人公のカズヤの様子に気づきながら距離を置いて見守るお父さんも大人としてはちょっと道を外れているかもしれません。
 でも、確かに子供を見ている大人がいました。
 私はそんな大人になれているだろうか、と自問しています。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-18 22:39 | 本の話 | Comments(0)

楠正成生誕の地

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 楠正成生誕の地は、大阪で唯一の村「千早赤阪村」にあります。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-16 21:17 | 課外活動 | Comments(5)

マドリング・スルー

 「マドリング・スルー。計画も秘策もなく、どうやらこうやらその場その場を切り抜けることだよ」と小中先生は女中のタキに言います。
 小説「小さいおうち」(中島京子著 文春文庫)の中に出てくる言葉です。小中先生は、タキが東京で初めて奉公していた家のご主人で小説家です。


 「…… いちばん解りやすくて強い口調のものが、人を圧迫するようになる。…強い口調でものを言ったほうが勝ちだとなってくる。……」と、小中先生の言葉は続きます。
 そうやって日本は、戦争への道を踏み出してしまいました。


 昭和の初めを舞台にしたテレビやドラマの主人公は、
戦争前夜には「戦争は避けたい」と思い、戦争が始まると「この戦争に勝てるはずがない」とつぶやきます。
 なのに、なぜ日本は和平への道へと進めなかったのでしょう。国民の声は、封印され続けたのでしょう。
 世の中の流れは、怖いなと思います。


 今も似たような状況にないでしょうか。
 大きな声で、派手な身振りで、無理難題を叫んでいる政治家の頭の中には彼の正義しかなく、他人の感情や宗教上のタブーさえ押し切ってしまおうとしているかのように見えます。

 あの時代と今の違いといえば、「日記」や「つぶやき」といった市井の民にも発信の場があることでしょうか。
 大きな声や強い口調に負けない「日記」や「つぶやき」が力を発揮できることでしょう。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-13 22:56 | 本の話 | Comments(2)

ちいさいおうち 

 我が家には、「ちいさいおうち」というタイトルの本が3冊あります。ふたりの娘たちがそれぞれに、そして私が1冊持っています。

 ふたりの娘たちが持っているのは、

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 絵本です。
 
(作・絵 バージニア・リー・バートン 訳 石井桃子 岩波書店)



 娘たちが通った幼稚園では、卒園生にこの絵本が渡されます。
本の扉には、担任の先生から子供たちひとりひとりにあてたメッセージが丁寧な文字でびっしりと書かれています。
 先生の書いてくださったメッセージを読むと、幼稚園に通っていた頃の娘たちの姿が私の脳裏に生き生きと蘇ります。
 娘たちの、そして私にとっても大切な宝物です。


 もう一冊、私が持っているのは、

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 2010年に直木賞を受賞した小説です。
(小さいおうち 中島京子著 文春文庫)



 タイトルが娘たちの大切な絵本と同じで、なんとなく敬遠していましたが、「よかったよ」という感想を聞いて読み始めました。

 昭和初期に東北から東京の中産階級の家に女中奉公に出たタキは、赤い屋根の家と若くて美しい奥様に心惹かれます。戦前から戦中の生活と時代が、ひとりの女性の眼を通して静かに時に逆巻きながら流れていきます。

 一人称の回顧録は不完全なままあちこちに種を撒いていますが、最終章では綺麗に刈り取られていきます。まるで裾のまつりまで丁寧に仕上げられた上質のドレスのようです。

 読まず嫌いはイケマセンね。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-11 22:03 | 本の話 | Comments(4)

阿修羅

 阿修羅(玄侑宗久著 講談社文庫)を読みました。

 かつては多重人格とよばれていた解離性同一障害を題材にした小説です。
 複数の人格を持つ妻を前にして途方に暮れる夫と彼女の主治医は、変容するひとりの女性のそれぞれの人格に立ち向かっていきます。

 主人公の成育史を遡っていくうちに当人にもそして周りの人たちにもどうすることもできなかった事実が明らかになっていきます。
 どうして複数の人格が現れるようになったのか、それぞれの人格は相互に記憶があるのかないのか、そして人格をひとつに統合させることはできるのか、興味深く読みました。

 人の記憶は曖昧で、それぞれが自分の都合のいいように再構築していくものだというのなら、私たちは何と不確かなものの上にいるのでしょう。
 理不尽に思える抑圧や思いもかけない艱難辛苦に出会ったとき、行き場を失った自己の精神を守るための無意識の反応が『心の病』です。いつ誰が罹っても不思議ではありません。乗り越えることが困難に思える試練に対して、自己保身のために緊急避難的回避をとるのは自然な反応だといえるでしょう。


 「阿修羅」を読みながら、『神は乗り越えられる試練しか与えない』という言葉を思い出しました。テレビドラマ「JIN-仁」で有名になったこの言葉の出典は、聖書のコリント人への第一の手紙だそうです。

 あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
(新約聖書 コリント人への第一の手紙10章13節)

 と続きます。

 辛い時に思い出したいです。
 逃げるのは卑怯だとか負けだというのは、強者の論理。立ち止まったり、引き籠ったりしてもいいのではないか、と私は思います。
 だから玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんの厳しくも柔らかく包み込むような眼差しを、全編を通じて感じたのは救いでした。
 小説家であり臨済宗の僧侶である作者は、臨済宗のお寺に産まれながら、キリスト教や仏教、イスラム教などの宗教に触れてこられました。また、少年期には生死を彷徨う大病を経験されています。そういった経験が、難しいテーマにも希望の光を与えることを忘れないのでしょう。。
^O^/


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by h_with_the_wind | 2013-07-09 21:34 | 本の話 | Comments(0)

抜書

 「感傷的なロマンティストほど自分の感情以外の心情に冷淡なものはいない」
 亀山郁夫さんの書かれたエッセイ集『偏愛記 ―ドストエフスキーをめぐる旅―』(新潮文庫)の中に出てきた文章です。

 普段、私が理由も定かではないままに感じていたことをスラリと言葉にされていました。
 この文章を読んで
「あっ、そうそう…そういうことか!」と深く頷きましたので、忘れないようにここに記します。


 この言葉、もとは作家ミラン・クンデラの言葉だったようです。
 「ようです」と曖昧な書き方をしたのは、亀山さんのエッセイの中には「クンデラ」としか書かれていなかったからで、浅薄な私には即座に誰を指しているのかわかりませんでした。検索して、プラハの春を題材にした『存在の耐えられない軽さ』の著者ミラン・クンデラ「だろう」と推論しています。


 「感傷的なロマンティストほど自分の感情以外の心情に冷淡なものはいない」
 『業』とか『原罪』といわれるものは、そういったところから生じるのでしょうか。
 自己の枠にとらわれて他の人の気持ちがわからなくなってしまうというのが人間の本性の一面であり、だからこそ人は宗教や哲学や読書に救いを求めるのかもしれません。
^^;


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by h_with_the_wind | 2013-07-07 21:48 | 本の話 | Comments(0)